古川美術館 万博開催記念展3 日本美再現「師から弟子へ~受け継がれる美」

※こちらの展覧会は終了いたしました。

作品を描く時、作家は自然に学ぶとともに先人の遺した偉大な作品を真摯に学び、自身の表現の可能性を追求します。本展では、近現代の日本画壇の師弟関係を中心として、現代に受け継がれる美の系譜を辿ります。京都画壇の大御所・竹内栖鳳、院展の安田靫彦・前田青邨、そして美人画の巨匠・鏑木清方。彼らは、近代を代表する作品を生み出すとともに、画塾を通して多くの優れた弟子たちを育てあげました。そのような近代の画塾制度に対し、現代は美術学校を通しての関係が主となっています。
また、親子を通しての系譜や、ファン・ゴッホと中川一政、クロード・モネと平松礼二など、時代や国を越えて先人の作品に強い感銘を受けた画家もいます。様々な関係を通して、先人の教えの豊かさとそこから新たなる道をひらこうとする画家の努力の足跡をお楽しみください。

期間 2005年10月22日(土曜日)~12月18日(日曜日)
主催 財団法人古川会 / 古川美術館 / 中日新聞社
後援 愛知県教育委員会 / 名古屋市教育委員会
協賛事業

名古屋市民芸術祭2005協賛

展示品の解説

I. 画塾、美術学校による美の系譜

竹内栖鳳、安田靫彦、前田青邨、鏑木清方とその弟子など画塾を中心に受け継がれた近現代日本画の美の系譜と、現代の美術学校を通じての師弟関係をご紹介します。

  • 安田靫彦/吉田善彦/森田曠平
  • 前田青邨/小山硬/田渕俊夫
  • 鏑木清方/伊東深水/寺島紫明
  • 竹内栖鳳/西山翠嶂/橋本関雪/伊藤小坡/西村五雲/山口華楊
  • 片岡球子/松村公嗣

トピック1 愛知県立芸術大学にて

片岡球子は、昭和41年、61歳の時、新設の愛知県立芸術大学の初代教授として就任し、100歳の現在でも客員教授として月に一回の指導にあたっています。松村公嗣は、その県立芸大の三期生として片岡の指導を受け、現在、同大学の教授を勤めています。松村の画家としての出発点は、師である片岡との出会いと、彼女が口癖のように言っていた「下手でもよい、自分の絵を描き続けることだ」という言葉でした。

『桜咲く富士』は、片岡らしいエネルギッシュな作品です。しかし、絵描きとしての始まりは落選続きで、恩師の一人、小林古径から「あなたの絵はゲテモノに違いないが、自分の持っているものを大事にしなさい。」との励ましを受けたこともありました。

一方、松村の『大文字』は、夏の終わりを告げる京の風物詩、大文字焼の情景です。作者は暗闇に浮かびあがる「大」の輝きに、儚さや寂しさをゆっくりと味わったと言いますが、その心情が見事に表されています。

伝統的技法を基礎に個性を最大限に活かし、対象から受けた感動や気持ちを画面に表現するという制作に対しての姿勢は、画塾から美術学校へと移り変わった現在でもしっかりと受け継がれています。

II. 親子・兄弟による日本画の系譜

  • 上村松園/上村松篁/上村淳之
  • 加藤栄三/加藤東一
  • 郷倉千靭/郷倉和子
  • 市野亨/市野龍起

トピック2 上村三代の清らかなる美

上村松園「初秋」、上村松篁「燦」、上村淳之「鴫」

上村松園は円山・四条派、中でも豪放闊達な鈴木松年と、柔らかく派手な幸野楳嶺とその弟子で写生を重んじた竹内栖鳳に師事します。多くの師を持つ松園の画風は、円山・四条派に加え南画、土佐派、浮世絵なども独学し、博物館や神社仏閣の宝物什器、古画屏風などの美点を摂取した、松園流とでも言うべきものです。そして「卑俗なところもなく、清く澄んだ感じのする香り高い絵」、「真善美の極致に達した美人画を描きたい」というのが、松園の念願でした。松園は単にきれいな女性を写実的に描くのではなく、写実を重んじながら女性の美に対する憧れや、理想を描いて近代美人画を確立したことで、女性初の文化勲章を受章します。

その息子の松篁は、母から直接絵の指導は受けませんでしたが、日常生活の中で絵に対する母の真摯な姿や、美における品格、格調などを身近に感じて育ちます。彼は京都画壇の伝統を踏まえながら花鳥画の世界を追求して、清澄で格調高い画風を確立し、文化勲章を受けます。松篁の息子の淳之は“鳥の画家”として知られ、京都で多くの野鳥を飼い、写生に徹してその生態を描きつづけています。

上村家三代の中には描く対象が異なっても、品格や格調、洗練された京文化が連綿と受け継がれています。

※真善美:学問・道徳・芸術の3つ。人間の理想としての普遍妥当な価値。

トピック3 地元親子作家の描く鳥の大作

市野亨「七彩鳥」(当館初出品となる青龍社社人推挙作品。横3.5m、縦2.35mの大作)、市野龍起「白鷺」(日展出品作。横1.71m、縦2.26mの大作)

明治43年愛知県海部郡に生れた市野亨は、朝見香城に弟子入りし、住み込みで研鑚を積み中京では朝見の俊英として知られるようになりますが、昭和8年頃に師の下を去り、当時繊細で上品な作風が主流だった院展の作風に飽きたらず、展覧会場でこそ真価を発揮し、広く大衆に訴えかける作品を目指すという“展覧会芸術論”を唱えていた川端龍子に惹かれ、弟子となります。